古文書ブログを始めました

はじめまして。丸岡優と申します。

 

この度、古文書解読に関する情報をみなさんと共有しようと思い、ブログを開設しました。不慣れなことも多いかと思いますが、よろしくお願いいたします。

 

初回の今日は、私どもが先週発売しました、Kindle電子書籍

安倍晴明記(安倍晴明物語) 一 現代語訳」

Amazon.co.jp: 安倍晴明記(安倍晴明物語) 一 現代語訳 eBook: 慧 夢之㞼, 丸岡 優: Kindleストア

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(表紙画:朝倉治彦編『假名草子集成第一巻』 東京堂出版 1980)

 

に出てきました、金滕(きんとう)の書について調べたところ、感動的なお話があったのでご紹介します。

ちなみに安倍晴明記では、占いの起源として、古代のインド、中国、日本の話が展開されますが、古代中国では、伝説の帝王伏羲が八卦を作り、周の文王がそれを六十四卦に分け、さらにその子、周公旦が金滕の書を書いたとされています。

金滕とは金で緘(と)じた匱(ひつ、大きな木箱)であり、これに占いに関する書を納めていたようです。

 

それでは、「易経書経講義」*の周書における講義内容をご紹介します。なお、講義の原文は読みやすいよう適宜、旧字や仮名を改めています。

(*易経書経講義:稲垣真 興文社 1913年)

易経書経講義 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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(なお、やはり原文のままだと読み辛いという感想を頂きましたので、徐々に大意を追加して参ります。)

 

場面:

 殷王朝をやっと倒した周王朝の武王ですが、その武王も病となり、弟の周公旦は「国がまだ安定していない中で武王が亡くなれば、反乱が起き、やっと得られた平和もすぐに失われるだろう」と、自ら生贄になることで武王を救おうとします。

 

講義:

金滕

 この篇は武王疾あり、この時、天下新たに我に帰して、人心未だ知るべからず。殷の旧民、ことに王家に服せず、王室これを以て、未だ安からず。根本揺るぎ易きに、武王の病軽からず。周公、よつて三王の廟に祈つて、身を以て、武王の命に、代はらんと請ふ。史官、その祝文を録し、併せて、その事の始末を記して、これを金滕の匱に蔵(おさ)む。故に金滕を以て、篇に名づけたるなり。

 

 殷王朝を倒し周王朝ができたものの、武王が病気になってしまいました。まだ殷の民が言うことを聞かず、王室も不安定な状態なうえ、武王の病は軽くありません。武王の弟、周公旦はこれを危ぶみ、先祖の三王(太王、王季、文王)の霊廟に祈って、武王の身代わりになりたいとお願いしました。

 史官(文書記録の役人)が、その祈りの文と事の一部始終を記して、金滕の木箱に納めたので、この篇を金滕と名付けています。

 

 これ、史官の記叙なり。武王既に、商紂に克ち、後僅かに、二年に及びたるに、王、癘虐の疾に罹り、心、悦予せず、然るに、この時は、王業日猶、浅きを以て、商の旧民、未だ尽く王家に服せず、王家、これを以て未だ安からず。根本揺るぎ易し。ゆえに、周公、深くこれを憂慮したり、となり。

 

 これは、史官の記述です。

武王は、商(殷)の紂王を倒しましたが、その2年後、非常に思い病にかかり、心も晴れません。まだ商の民たちは全く服従しません。そのため王家もまだ基盤が揺るぎやすく不安定です。そのため、周公旦は、これを深く憂えていました。

 

 太公、召公、共に武王の疾あるを見て、すなはち辞を同じくして曰(い)ふ。我等は、それ王の為に、穆卜(ぼくぼく)せん、となり。これ、武王の疾は、周家の安危に係る、故に、二公、自ら安んぜず、これ、あるいは天意の然らしむるところ、ならんかと思ひ、亀卜(きぼく)に因つて、以て天意を伺ひ、その安否を、知らんと欲してなり。

 

 穆卜:穆は、敬んで和睦の意あるなり。穆卜は、猶、共に卜すると、言ふがごとし。古は、国に大事あれば、三公九卿、及び百の執事、皆聚(あつま)つて、卜筮(ぼくぜい)を為さしむ。故に、その卜とを名づけて、穆卜と云ふ。下文の、成王、風雷の変によりて、王と大夫と、尽く弁して、金滕の書を啓(ひら)いて、卜すると、云ふを以て、見るべし。故に古註に、穆を敬とばかりみるは、非なり。

 

 太公望と召公奭は、二人とも武王の病を見て、口をそろえて言いました。

「私たちは、武王のために二人で占いを致します。」

こう話したのは、武王の病が王室の安危に係ると見た二人が、これは天の意志なのかと思い、亀卜によってその安否を知りたかったからでした。

   

 周公は、二公(太公、召公)が、武王の為に、穆卜せんとするに因り、すなはち先王を戚(いた)ましむることに、托して、これを止めんとし曰ふ、未だ武王の疾を以て、先王の尊霊を、憂悩せしむべからず、となり。」その意、父母の心は、常に子孫の疾病を以て、憂と為すものなり。然るを、今武王の為に、穆卜するは、必ず先王の宗廟に於いて、これを行ふべし。然るときは、先王の霊、これに因つて、遂に憂慮を懐かれんことを恐る。故に、姑(しばら)くこれを止むるに若かずと。

 

宗廟:中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟。

 

 周公旦は、二公(太公望と召公奭)が、武王のために占いをしようとするので、これを止めさせようとして言いました。

「今はまだ、武王の病気のことで、先王の尊霊を心配させるべきではない。」

その意図は、「父母は常に子孫の病気で心配してしまうものであり、今武王の占いをするとなると、必ず先王の宗廟で行うことになる。つまり周公旦は、先祖に思い煩いをさせたくないので、しばらくは止めておいた方が良い」ということでした。

 

 これ、周公は、身自ら、祷(いの)りて為さんと思ふ。故に托して二公に同意せざりしならん。然るに、周公は、三王に祈つて、身を以て、武王の死に、代はらんと請へる。これ、その先王を憂悩すること、穆卜よりも甚だし。これを以て見れば、周公の言、前後揃はざるが如し。蓋(けだ)し、意(おも)ふに、周公聖明の資を以て、幽明の理を洞見し、武王の疾、至つて危ふきを見る。故に、今穆卜しては、その凶兆を得んこと、十に八九なるべし。果たして然らば、天下未だ安からざるに、凶兆を得て、百官、庶士、武王の命、朝夕に在りと知らば、変の起こらんこと、測り難し。これ、国初の至つて、大切の場所なれば、わざと、この詞を以て、二公が、穆卜の評議を、うち消されたるなるべし。

 

 しかし、実際は周公旦自身で祈りを捧げようと思っていて、二公に同意しなかったのでしょう。そして周公旦は、三王に祈って、武王の死に代わりたいとお願いしました。

 このことは、二公の占いよりもずっと先王を心配させることになり、周公の言葉はつじつまが合わないように思えます。おそらく周公旦は、彼の素晴らしい才能により、奥深い理を見抜き、武王の病気が危険なことを悟ったのでしょう。それゆえに、ここで占いをすれば、十中八九、凶兆(不吉な結果)になり、そうなると、天下がまだ不安定なのに、凶兆で多くの役人や一般の人々が、武王の命がそう長くないと知れば、いつ反乱が起きるか見計らうことができません。この時は国の始まりの大事な時期だったので、わざと先ほどのように言って、二公の占いの進言を退けたのでしょう。

 

 周公、既に太公、召公の、卜せんとせしを、郤(しりぞ)け、すなはち、王の病気平愈を、先王に祷るを以て、己の職事と為し、(これ、国の一大事なれば、三卿、庶官に任ぜず、周公、自ら身に引き受けて、取り計らひたるなり。)三の壇(太王、王季、文王を祭る。)を為(つく)り、墠(せん)を同じくし、(一墠の内に、三壇あるなり。)以て、神を下すの処と為し、また、その南に於いて、別に一の壇を築き、(祭者、周公、この壇に上りて、北面して、南にある三壇に、向かふなり。)北に向かつて、祭者の位置を定め、周公、ここに立ち、を、檀上に於き、を、手に執り、すなはち、詞を陳べて、以て太王、王季、文王の霊に告げ、武王の疾の、平愈を祈りたり、となり。」これ、史官が、その時の式を記したるものなり。

 

璧:璧は、説文に、瑞玉の圏なり、とあり、圭璧は、圭は、鋭にて、璧は、員なり。公、侯、伯、は、玉を執り、子は、穀璧を執り、男は、蒲璧を執る。皆、五寸なり。白虎通に、璧は、外、円にして、天に象(かたど)り、内、方にして、地に象るとあり。

珪:珪は、圭に同じ。上、円にして、下、方なり。瑞玉を以て、これを為る。周礼に、四圭あり。王は、鎮圭を執り、公は、恒圭を執り、侯は、信圭を執り、伯は躬圭を執るとあり。説文に、恒圭は、九寸、信圭、躬圭は、皆七寸、また、六寸とあり。璧、珪、ともに、神を礼する、所以のものなり。

 

  周公旦は、太公望と召公奭が占おうとしたのを退けて、武王の病気平癒を先王に祈ることにしました。これは国の一大事のため、公卿やその他の役人に任せなかったのです。そして、太王、王季、文王を祭る三つの壇を作って神を降ろす所とし、また、その南に別に一つの壇を築き、祭者である周公は、この壇に上って、北に向かいました。ここに立って璧(翡翠製の円盤状の装飾品)を檀上に置き、珪(翡翠製で上が尖っていて、下が四角になった装飾品)を手に取って、祭詞を陳べることで三王の霊に告げ、武王の平癒を祈りました。

 以上のことは、史官がその時の儀式を記したものです。

  

 祭祀の式、既に備はる。太史、すなはち冊祝を読んで曰く、爾(なんぢ)三王(太王、王季、文王)の元孫、(武王なり)某、悪厲、暴虐、の疾に遇ふて、勢甚だ危ふし。然るに、元孫某は、すなはちこれ、宗祀を承け、王業を継ぎて、天の元子たり。爾三王の神霊は、まさに、元子を保護するの、責任(武王は、元子なり、武王を立て、天下を治めしよ、との責なり。求と云ふ意を兼ぬ。)を、上帝の前に、任ぜられしなるべし。然らば、その元子たる者(武王)は、死に至らしむべからず。もし、その病、果たして救ふこと能はざれば、すなはち願はくは、旦(周公の名)が、生命を以て、元孫某(武王)の身に代へて、某の疾を、平癒せしめよ、となり。蓋し、この時、周家の王業、日猶浅し。故に。武王没するときは、すなはち人心これが為に揺動し、国事、大に憂ふべきことありしならん。故に周公の祷詞、切迫なること、かくの如し。この章、古来、諸説ありといへども、今、その正理を本として、説中の、美なる者を取るなり。

 

冊祝:今の、祝版の類の如し。すなはち、のつと(祝詞)の文を、書せし冊子なり。

 

 祭祀の準備が整い、周公旦は祝詞を唱えました。

「三王の子孫であるあなた武王は、重篤な病気にかかり、非常に危険な状態です。あなたは王家の主として王業を継ぐ天の子です。先祖三王の神霊は、まさしくあなたを保護し、王として天下を治めさせる責任を、天帝に任じられているのです。よってあなたを死に至らしめることはできません。もし、その病から救うことができなければ、そのときはこの周公旦の命と引き換えに、病を平癒させてください」

 おそらくこの時は、周家が国を治めてからまだ日は浅かったために、《武王が没すれば人々は動揺し、国事も大いに憂えるようなことになるだろう》と周公旦が思い、祝詞が切迫したものになったのでしょう。この章は、古くから解釈が諸説あるのですが、今回はその正しい道理を基本にして、耳障りの良い内容を取り上げました。

 

 周公、自ら告ぐ。予が仁、(仁は、人なり。この所にては、人がら、生い立ちと訓ず。)能く吾が祖、吾がに承け順ひ、逆らはずして、また、材幹(器量なり)多く、芸能多し。故に、能く祖考の、使役に任じて、鬼神に服事すべし。然るに、乃(なんぢ)の元孫(武王を指す)は、旦(周公自ら名(よ)ぶ)が、多材多芸なるに及ばずして、祖考の役使に任(にな)へず。鬼神に服事すること能はず。故に、祖考必ず、その人を左右に呼び寄せ、服事せしめんことを、求むるの意にて、この人(武王を指す)の病死を促すことなれば、材芸兼ね備はつて、能く鬼神に事(つか)ふることを得る。旦を呼び寄せて、これを用ゐるにしくはなし。必ずしも、元孫(武王)を用ゐるには、限る間敷(まじ)きことなりとなり。」按ずるに、己を揚げて、鬼神に告げ、武王を抑へて、役使に任へずと云ふは、己武王に代はつて、死せんが為なり。

 

 考:亡父。

 

  周公旦は言いました。

「私は先祖や亡き父に従順で逆らうことなく、また器量もよく、芸能も優れています。そのため私は先祖の任命に応じ、鬼神に仕えようとしています。武王は、私、周公旦よりも多材多芸でないことから、先祖の思うような役割を果たせず、鬼神に仕えることはできません。今、先祖は鬼神に付き従わせようと武王を呼び寄せ、病死させようとしておりますが、才智と技芸を兼ね備えていればこそ、鬼神に充分奉仕できます。この私を呼び寄せれば、私に及ぶ者はおりません。必ずしも、武王を用いる必要はないはずです。」

 おそらく、周公旦は自分自身をよく見せて、鬼神に告げることで、武王に代わって死のうとしたのでしょう。

 

 元孫(武王)は、材芸なくして、鬼神に服事すること能はざれば、すなはち只々命を上帝の庭に、受けて、君と作り、師と作り、その徳教を布(し)きて、以て四方の民を、佑(たす)け助くる事を掌(つかさど)らしめ、用ゐて、能く王家の基本を固め、爾三王の子孫を、下地に安定せしめ、四方の民をして、法を奉じ、令を守つて、祇(つつし)み敬(つつし)んで、我周家に服帰せざることなからしめよ。すなはちこれ、元孫の一身は、近くは、現時人民の依り頼む所、遠くは、王家子孫の憑(よ)り籍(かり)る所、もし、この重任ある身に於いて、一朝登遐(とうか)して、朝に在らざるときは、すなはち現時、及び後世の者、まさに、何れの所に、依り憑(かか)らんや。嗚呼、元孫の責任は、重くかつ大なること、かくの如し。故に、元孫は、誠に天帝の降し置かるる、宝命を墜とさずして、天下を、太平に治め、子孫継ぎて、天子となるを得ば、すなはち、爾三王の霊魂も、また永く依帰する所あつて、無窮に廟食する所あらん、となり。周公、請祷の詞、これに至つて、益々懇切なるを、見るべし。

 

登遐:《遠い天に登る意》天子の崩御をいう語。

 

 武王は才智と技芸がなく鬼神に仕えることができないので、ただただその命を宮廷に永らえさせ、君主や師として、徳のある教えを広め、四方の民をかばい、助けることに従事させてください。そして、よく王家の基礎を固め、あなた方三王の子孫を下地としてこの国を安定させ、四方の民に法律を理解させ、命令を守らせ、慎み敬わせることで、我が周家に従わせるようにしてください。

 武王の一身は、近くは今の民の頼る所、遠くは、王家子孫の頼る所です。もしこの重要な責任を負う身において、ひとたび崩御して王朝からいなくなれば、現在、そして後世の者はいったいどこに頼ればよいのでしょうか。ああ、武王の責任はこれほどまでに重大なのです。武王は、天帝が降ろし置かれた宝の命を落とすことなく、天子として天下を太平に治め、子孫を継ぐことができれば、あなた方三王の魂もまた永く拠り所とする場所があって、いつまでも霊廟で祀られるでしょう。

 周公旦の祈りの言葉は、これほどまでに強く願うものだったことが分かります。

 

 周公、猶云ふ、我が身、元孫の、死に代はらんことを、祈請すれども、未だ、三王在天の尊霊、我が願意を、受けたるや、否やを知り難し。故に今われ、それに就きて、三王の命、如何んと云ふことを、元亀に問ふて、以てこれを卜(うらな)はんとす。故に、卜、もし吉兆を得ば、これ、三王我に聴きて、その願を許されたるなり。果たして然らば、われそれ、植きたる所の璧と、乗りたる所の珪とを以て、退き帰つて、爾三王が、元孫(武王)を保護するの命(元孫の疾、平癒することを指す。)を俟(ま)たん。爾、もし、我に聴かずして、その願意を、許さずんば、すなはち爾の子孫を、下地に、安定せしむること、能はざるのみならず、爾先王も、またその依頼する所を失はん。(周の基業は、必ず堕ち、国亡びて、宗祀永く絶えんと、云ふことなり。)然るときは、我また、神に事ふることを願ふて、得べからざるのみ。然らば、われは、すなはち、その璧と珪とを、蔵め屏(おさ)めんとなり。周公、鬼神に告ぐるをみるに、生きたる人に云ふが如し。兄を愛し、国を憂ふるの情、争(いか)でか、先王の霊の、感応なからんや。

 

  周公旦は、更に言いました。

「私は、武王の死の身代わりになりたいとお願いしておりますが、まだ、天におられる三王のご尊霊が、私の願いを聞かれたのかどうか分かりません。そのため、私は今、三王のお考えがどうなのかを、亀の甲羅によって占おうと思います。占いで、もし吉兆が得られたら、三王は私の願いを聞き入れ、お許しを下さったということになります。そうなれば、私は璧と珪を以て置いたまま、帰って武王を守れとの命令を待ちましょう。もし、私の願いを聞き入れてもらえず、お許しが得られないならば、あなた方の子孫を下地にして国を安定させることができなくなるばかりでなく、あなた方も、その寄る辺を失うことになるでしょう。(周の礎となる行いは必ず無駄になり、国が亡んで、あなた方を尊び祀ることも永遠になくなるでしょう、ということです)

そのようなときは、私がまた神に仕えることを願っても、実現することはないでしょう。そうであれば、私はこの璧と珪をしまい、もうお仕えすることはありません。」

 周公旦が鬼神に告げる様は、まるで生きている人に言うようでした。兄を愛し、国を憂える思いに、どうして先王の霊の働きかけがないでしょうか。

 

 周公は、祝辞既に畢(おは)り、すなはち三人(卜筮を掌るの、官三人なり。)に命じて、同じく大亀を灼(や)きて、これを卜せしめて、相参考するに、三亀の兆は、一同に、皆吉兆を重ね見したり。然るに、猶未だ、匱中にある所の、占書を見ず。故に、管を以て、その匱を開き、内に蔵むる所の、占書を取つて、これを観るに、これまた、併せて吉兆なりし、となり。」これ、三王の霊、冥冥の中に於いて、元孫の、生命を保護すること、推して知るべし。また、周公誠孝の感ずる所なり。

 

籥:続字彙補に、鑰(かぎ)と同じ、搏鍵の器なりとあり。鑰は、鎖鑰なり。説文に、関下の牡なり。本□(門構えに龠)に作る。徐曰ふ、通じて籥に作ると。礼の註に、管籥は、鍵を搏(う)つの器なりとあり。(そ)に、鉄を以て、これを為り、鎖内を搢(はさ)んで、以てその鍵を搏ち取るなり、とあり。

疏:経典の注釈。また、その書物。

 

 周公旦は、祈りの言葉を終えて、占いを掌る三人に命じて、大亀の甲羅を焼いて、占わせました。三つの亀の結果は、一同に、どれもが吉兆でした。しかし、まだ金滕の櫃の中にある占いの書を確認していません。そこで、鍵でその櫃を開け、中にしまっていた占いの書を取って読んでみると、これまた吉兆であったことが分かりました。

 これは、三王の霊があの世において、武王の命を守ろうとしていることを推察できるでしょう。また、周公旦の、誠の孝行へのお答えだったとも言えます。

 

 周公は、既に吉卜を得て、すなはち曰ふ、われ今、兆(うらかた)の形体を観るに、定めて吉なり。斯くの如くんば、王の疾は、必ず生命に害あるまじ。われ、小子(周公自ら指す)新たに、三王の命を受けたり。然らば、これ永く、この図(周の王業を固めること)を、遂げ終はるを得ん。ここに俟つ所は、三王の、能くわが元孫一人を念(おも)ふて、安寧ならしめ、わが初願に、負(そむ)かざること、これのみ、となり。」これ、周公、深く喜悦したるの詞にして、忠誠の言、表に発したる所なり。

 

 占いの良い結果が出て周公旦は言いました。「今、占いの結果を見てみると、吉であることは間違いありません。このようであれば王の病は命に別状はないでしょう。そして私は新たに三王の命令を受けたので、長い間この周の王業を確固たるものにすることができるでしょう。三王が武王のことを思って身の安全をはかり、私の初めての願いを全うすることを待つばかりです。」

 これは周公旦が深く喜んだときに発した忠誠の言葉でした。

 

 周公は、既に吉卜を得て、大に喜び、三壇の祭場より、帰つて、すなはち彼の祝冊(すなはち、のつとの冊子なり)を、金を以て、緘(かん)する所の匱中に納め、入れて、以て三王(太王、王季、文王を云ふ。)の命を待つなり。周公の至誠、豈に三王の霊に、感ぜざらんや。

 周公旦は、吉が出たので大いに喜び、三壇の祭場から戻って、そのままあの祝冊(祝詞の冊子)を、金で緘じた匱の中に納めて、三王の命令を待っていました。周公旦のこの上ない忠誠心に、どうして三王の霊が感動しないでしょうか。

 

 周公が、祝祭したる、翌日に、武王の癘疾甚だ危ふかりしにも、拘(かかは)らず、果たして、周公の至誠、三王の霊に感じて、武王の疾、すなはち瘳(い)えたりとなり。

 周公旦が儀式を行った翌日、周公旦の誠実さに感動した三王の霊のおかげで、あれだけ危険だった武王の病も、すっかり癒えたということです。

 

 これは、史官の記序なり。武王が、最早喪(崩ずることなり)して、成王未だ幼弱なりしより、周公旦政を摂せり。然るに武王が、殷紂を亡ぼして、その子、武庚(ぶこう)禄父を、その故地に封じたるも、不安心なれば、三弟の管叔、蔡叔、霍叔をして、これが監(目付役なり)たらしめし所の、三監が、すなはち国中に流言(言触らさしむるなり)して、曰く、周公旦は、成王の幼弱なるに乗じて、己が、周の天下を、奪はんとするの、意ありとなり。

 

 これは史官が記した経緯です。武王が早くも喪して(崩御して)、成王がまだ幼弱なときから、周公旦は政治を代わっていました。さて、武王が殷の紂王を亡ぼして、その子、武庚(ぶこう)禄父をその故地の領主としていたのも安心できなかったので、三人の弟である管叔、蔡叔、霍叔を、武庚の監視役としましたが、その三人がその頃、国中に流言(吹聴させること)して言うには、周公旦は成王が幼弱であることに乗じて、自分が周の天下を奪おうとする考えがある、ということでした。

 

幼弱幼く体が弱いこと。

武庚(生没年不詳):中国周王朝の初期の武将。殷王朝の最後の帝王である帝辛(紂王)の子。名は禄父。

故地:1 もと所有していた土地。2 昔からの縁故のある土地。

 

 周公は、流言の際に当たり、心自ら安んぜず、すなはち、二公(太公、召公)に告げて曰く、われ今、命を先王に受けて、少生を輔佐し、社稷(しやしよく)を、安んじ定めんとするに、方今の如き、流言の起こるあらば、人心危疑して、上下安からず。故に、今に当たつて、われもし、立つを避けずんば、流言、愈々盛んに、行はるるに至り、国、益々安からず。これ、禍乱蕭墻(せうせう)の内に起こり、遂に、社稷を危ふくするに、至るものなり。もし、その如きあらば、我、何を以て先王に、地下に告ぐべきや。告ぐるに、一言の辞なかるべし、となり。」これ、周公、意見を太公、召公の二公に恊議せしなり。

 

 周公旦は、流言を不安に思い、すぐに二公(太公、召公)に告げました。

「私は今、命を先王に受け、成王を輔佐し、社稷(しやしよく)を静かに治めようとしていたところ、まさに今のように流言が起きることがあれば、人は危ぶみ疑って、統治者も人民も安心できません。ですから、今に当たって、私がもし政治の輔佐を止めなければ、流言は盛んになって、国はますます不安定となります。これは、世の乱れが宮中に起こり、遂に社稷を危うくするまでに至ってしまいます。もしそのようなことがあれば、私は地下にいらっしゃる先王に何を申し上げましょうか。一言も言葉が見つからないでしょう。」

 これは周公旦が意見を太公、召公の二公に相談した内容でした。

 

社稷:古代中国で、天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。

禍乱:世の乱れや騒動。

蕭墻:宮殿内の屏風または垣。

 

 初め、流言の起こるに当たつては、成王も、猶周公を疑ひたれども、未だ事の実否を尽くさず、然るに、周公は、これを避けて、既に東都に居りたり。故に、周公も、成王も、未だこの流言の、誰人よりして、起こりしと云ふことを知らず、そのまま、二年を過ぎて、初めて、この流言は、管叔、蔡叔より、出でたることを知り、成王の疑ひもやや解け、従つて、管叔、蔡叔が、忠良を讒して、以て社稷を危ふくせんと、欲したりの、悪謀を発見したるなりと、なり。」これ、小人の、君子を害する、その謀図、巧みなりといへども、終に君子の正誠に勝つ能はざることを、見るべし。

 

忠良:忠義で善良なこと。また、そのさまや、その人。

小人:度量や品性に欠けている人。小人物。

 

 はじめ、流言が発生したころは、成王もまた周公旦を疑いましたが、まだ事実かどうかを確かめてはおりませんでした。それにもかかわらず、周公旦は成王を避けて東都に移っていました。そのため、周公旦も成王もまだ、この流言が誰によってもたらされたかを知りませんでした。そのまま2年が過ぎて初めて、成王はこの流言が管叔と蔡叔より出たことを知りました。成王の疑いもやや解け、従って、管叔と蔡叔が忠良(周公旦)を誹ることで国家を危うくしようという謀りを発見した、ということです。」これは、小人物が君子を害する謀りが巧みであったといっても、最終的には君子の誠に勝てないことが分かるでしょう。

 

 後に于(おい)て、周公は、詩四章を為つて、成王に貽(おく)りたり。その篇を名づけて、鴟鴞と曰ふ。その詩は、鳥の自ら言ふに托(ことよせ)して、その意を言ひたるなり。その譬へたる鳥の、鴟鴞は、悪鳥にして、自らその巣を破り、また、その卵を破るものゆえ、これを、武庚が、管叔、蔡叔、と共に、王室を敗ることに比し、深く王室の為に、憂ひたるものなり。故に、語気切直なれども、もと忠憤の余りに、出でたるものにして、かつ、成王も、また、心を虚しくして、これを受けたりし。故に、敢へて周公を詰(なじ)り責めざりし、となり。」これ、成王も、一時は、周公を疑ひしも、ここに至つて、その疑、全く晴れて、反つて、悔心の萌したるを、見るに足るなり。

 

鴟鴞(しきょう):①鳥「とび(鳶)」また、「ふくろう(梟)」の異名。② 邪悪な行ないをすること。また、心の正しくない人をたとえていう語。

 

 後になって、周公旦は詩四章を作って、成王に贈りました。その篇は鴟鴞という題名でした。その詩は、鳥が話すことにかこつけて、周公旦の気持ちを告げたのでした。その譬えた鳥の鴟鴞は悪い鳥で、自分でその巣を壊し、またその卵を割るものですから、これを武庚が管叔や蔡叔と共に王室を壊すことになぞらえ、王室のことを深く憂えたものでした。そのため、語気は切直でしたが、もともと義憤の余りに出たものでしたし、成王もまた心を虚しくしながら、これを受け止めました。そのため、敢えて周公旦をなじったり、責めたりはしなかったそうです。」これは、成王も一時は周公旦を疑いましたが、ここに至ってその疑いが完全に晴れて、却って後悔が芽生えたことが見て取れます。

 

 これまた、史官の記序なり。さて、是(この)年の秋は、田寛大に熟し、頗る豊作なりしが、尚未だこれを収め、穫らざるに先立ちて、忽大に雷電し、これに暴風を加へたり。これ、天候の悪きに因つて、禾黍(かしよ)は、尽く吹き偃(ふ)せられ、大木は、斯(ここ)に抜けたり。これに因つて、一国の人は、大に恐れ懼れたり。これに於いて、成王は、大夫諸臣と共に、尽く弁服して、以て、金滕の匱を啓き、冊書を取つて、うらなはんとするに、偶々、周公が、武王の疾あるの時に当たつて、自ら祭事に任じ、身を以て、その死に代はらんと、祈りし所の、祝冊を見出したり、となり。これ、周公の至誠は、上天に通徹すといへども、成王は、未だこれを、信ぜざりしゆえ、上天、忽ちこの災変を降して、以て成王を、警戒せしものならん。

 

禾黍:稲と黍(きび)。

 

 これはまた、史官の記した経緯です。さて、この年の秋は、田が広々と実り、すこぶる豊作でしたが、まだ収穫していないというのに忽ち大きな雷と、暴風が重なりました。悪天候のため、稲や黍はことごとくなぎ倒され、大木は抜けてしまいました。このため、国中の人は大変恐れおののきました。ここで、成王は貴族や諸臣下と共に、皆が弁服(礼服)を着て、金滕の匱を開き、冊書を取って占おうとすると、たまたま周公旦が武王のご病気の時に当たって自ら儀式を行い、身を以て武王の死の身代わりになろうと祈ったときの祝冊を見つけたそうです。周公旦の誠実さは、天上まで貫き通すほどといっても、成王はまだそれを信じていなかったため、天上は忽ちに今回の災いを発生させ、それによって成王を戒めたということなのでしょう。

 

 二公(太公、召公)及び、成王は、既に、金滕匱中の書を見て、始めて、周公が武王の命に代はらんと迄に、祈請したる誠意を知り、すなはち、その事の始末を、諸史(卜を掌りし人)と、百執事(その事に関係したる、諸役人を指す。)とに、問ひたるに、その人々対(こた)へて曰く、然り。信に、その事ありたるに相違なかりし。ああ、それに付き、当日の事が思はるる。そもそも、当日は、公(周公)が、祝の事を我等に命じ、我等が、まさに、その事を掌りしが、その事、頗る秘密にして、他へ洩らし聞こゆることを、禁ぜられたる故に、我等は、今日に至るまで、敢へてこれを、他人に告げざりしとなり。」それ、周公が、国の為に、苦心して、至誠、天人を感ぜしむること、浅からず。故にこれに至りて、天変に徴し、人言に証して、益々、その信なるを見るに、足るなり。

 

 二公(太公、召公)と成王は、金滕の匱の中にあった書を見て、初めて周公旦が武王の身代わりになるべく祈りを捧げていたことを知り、すぐに当時の顛末を諸史(占いを掌る人)と、百執事(関係した諸役人)に尋ねたところ、人々は答えました。

「左様です。まことに、その事は間違いありません。ああ、あの日の事が思い出されます。そもそもあの日は、周公様が儀式の事を我々にお命じになり、我々はそのようにいたしましたが、そのことは全くの秘密で、他人に漏らすことを禁じられたので、我々は今日まで誰にも話しておりませんでした。」

 周公旦は、国の為に苦心して、誠に至り、天の人を非常に感動させました。そのため、天変に兆候が現れ、人の証言が出て、益々、その信実が分かりました。

 

 成王、金滕の書を啓きて、天変を卜せんとして、忽ち、周公が、三王に祈請せし、当日の冊書を得、遂に感悟して、その書を執り、涕泣して曰く、今日の天災ありしは、われ既にその由を知る。故に、今更に、穆卜するに及ばず。昔、公(周公)は、我が皇考(武王)の時にありて、心力を尽くし、王室の為に、勤労せしこと、かくの如し。然るに、その時は、われ尚幼冲にして、諸事、詳に知らざりし。これを以て、その忠誠なる公をして、無根の流言に遭ふて、その位に安んぜざらしむることを致せり。これひとへに、予小子の、不明なりしに因るなり。この故に、今、天は威を動かして、風雷の変をしめし、以て明に、公の盛徳を彰し、予小子の不敬を、懲らし戒められたるなり。故に、今天の怒りを、緩めんとするには、これ、われ小子が、親(みず)から往きて、公を迎へて、我が国に帰らしむるにあるのみ。然るときは、我が国家が、有徳を崇ぶの礼に於いても、また宜しきに適ふことなり、となり。」それ、これに至つて、周公の心、始めて明に、成王の疑は、始めて釈(と)け、周の社稷は、復た安平に帰したるなり。

 

皇考:在位中の天皇が亡くなった先代の天皇を言う語。

 

 成王は、金滕の書を開き天変を占おうとしてすぐ、周公旦が三王に祈っていた当時の書を見つけ、遂に今までの経緯を悟り、その書を持って涙を流して言いました。

「私は近頃の天災の理由が分かりました。そのため、もう占うまでもありません。昔、周公旦は私の父、武王の御代に心を尽くし、このように王室の為に働きました。ところが私はまだ幼くて、色々な事が良くわかっていませんでした。そのため、忠誠を尽くした周公旦を、事実無根の流言のために、その位から追いやってしまいまいました。これはひとえにこの私が見抜けなかったことが原因です。このため、今、天はその力を使って風雷の異変を起こし、周公旦の立派な徳を知らしめ、私の不敬を懲らしめ、戒めているのです。よって、今、天の怒りを鎮めるためには、私自らが周公旦のもとへ行き、周公旦を迎えて我が国に帰らせる以外の方法はありません。そうなれば、我が国家が、徳を尊ぶ礼においても、それがふさわしいのです。」

 ここまで来て、周公旦の心は明らかになり、成王の疑いは解け、周の社稷(祭壇)はまた穏やかになりました。

 

 成王、既に天災に因つて感悟し、遂に親ら周公を迎へんとして、郊外に出づれば、天すなはち雨ふりて、風を反へし、偃し倒れし禾(いね)は、尽く起き上がりたり。天の感応、速やかなること、斯くの如し。二公(太公、召公)は、因つて邦人に命じて、凡そ、偃し倒れたる、大木を、起こして、その根を築き固め、更に、培植を加へしめたり。ここに於いて、その歳、果たして、大に熟し、豊年なりし、となり。」それ、成王は、不明にして、周公の誠実なりしを知らず、一時流言に惑はされ、聊(いささ)か、疑心を抱きたるゆえ、天は忽ちに威を示して、これを懲戒せしが、一旦、その非を悟り、過ちを改めて、親ら周公を迎ふるに及んでは、天はまた為に、その順を助け、年をして豊ならしむるに至り、忽ちに、災を転じて、祥と為したり。その感応差(たが)はざること、かくの如し。以て天道の、至明至公なるを見るべし。按ずるに、武王、疾瘳えて、四年にして崩ず。群叔流言して、周公罪を得て、東に居ること二年の後、成王周公を迎へて、周に帰らしむ。その間凡そ六年の事なり。書を編む者、金滕の篇の末に附けて、具(つぶさ)に命を請ふことの終始と、金滕の書の、顕晦とを見せしむるなり。

 

顕晦:現れることと隠れること。

 

 成王は天災によってこれまでの経緯を悟り、遂に自ら周公旦を迎えに行こうとして、郊外に出れば、天は雨を降らし、風を吹かせ、伏し倒れた稲は、ことごとく起き上がりました。このように天の感応は速やかでした。二公(太公、召公)は、自国の人に命じて、伏し倒れた大木を起こして、その根を築き固め、さらに育てさせました。こういうわけで、その年、実は大いに熟し、豊年となったそうです。

 成王は、周公旦の誠実さを見抜けず、一時は流言に惑わされて、周公旦を疑ってしまったため、天は現に威を示して成王を懲らしめましたが、成王がその非を悟り、過ちを改めて、自ら周公を迎えることとしたので、天はまたその理に従い、その年を豊作にし、災いを転じて福としました。その感応はこのようにして正道に食い違うことはありませんでした。このことから、天の道が明るく、公平なことが分かるでしょう。

 私が考えますに、武王は病気が癒えて4年にして崩御されました。叔父たちは流言をして周公旦は濡れ衣を着せられ、東に隠棲すること2年の後、成王は周公旦を迎えて周に帰らせました。その間およそ6年のことでした。この書を編んだ人物は、金滕の篇の末尾に、身代わりを乞うた経緯と、しまわれていた金滕の書が現れたことを詳細に追記したのでしょう。