易経書経講義 周書 金滕 その7

 こんにちは。丸岡です。かなり久しぶりとなってしまいましたが、金滕のお話の続きをご紹介します。(折り返し地点まで来ましたので、もう少しで完結します。)

 

 これは、史官の記序なり。武王が、最早喪(崩ずることなり)して、成王未だ幼弱なりしより、周公旦政を摂せり。然るに武王が、殷紂を亡ぼして、その子、武庚(ぶこう)禄父を、その故地に封じたるも、不安心なれば、三弟の管叔、蔡叔、霍叔をして、これが監(目付役なり)たらしめし所の、三監が、すなはち国中に流言(言触らさしむるなり)して、曰く、周公旦は、成王の幼弱なるに乗じて、己が、周の天下を、奪はんとするの、意ありとなり。

 

 これは史官が記した経緯です。武王が早くも喪して(崩御して)、成王がまだ幼弱なときから、周公旦は政治を代わっていました。さて、武王が殷の紂王を亡ぼして、その子、武庚(ぶこう)禄父をその故地の領主としていたのも安心できなかったので、三人の弟である管叔、蔡叔、霍叔を、武庚の監視役としましたが、その三人がその頃、国中に流言(吹聴させること)して言うには、周公旦は成王が幼弱であることに乗じて、自分が周の天下を奪おうとする考えがある、ということでした。

 

幼弱幼く体が弱いこと。

武庚(生没年不詳):中国周王朝の初期の武将。殷王朝の最後の帝王である帝辛(紂王)の子。名は禄父。

故地:1 もと所有していた土地。2 昔からの縁故のある土地。

 

 周公は、流言の際に当たり、心自ら安んぜず、すなはち、二公(太公、召公)に告げて曰く、われ今、命を先王に受けて、少生を輔佐し、社稷(しやしよく)を、安んじ定めんとするに、方今の如き、流言の起こるあらば、人心危疑して、上下安からず。故に、今に当たつて、われもし、立つを避けずんば、流言、愈々盛んに、行はるるに至り、国、益々安からず。これ、禍乱蕭墻(せうせう)の内に起こり、遂に、社稷を危ふくするに、至るものなり。もし、その如きあらば、我、何を以て先王に、地下に告ぐべきや。告ぐるに、一言の辞なかるべし、となり。」これ、周公、意見を太公、召公の二公に恊議せしなり。

 

 周公旦は、流言を不安に思い、すぐに二公(太公、召公)に告げました。

「私は今、命を先王に受け、成王を輔佐し、社稷(しやしよく)を静かに治めようとしていたところ、まさに今のように流言が起きることがあれば、人は危ぶみ疑って、統治者も人民も安心できません。ですから、今に当たって、私がもし政治の輔佐を止めなければ、流言は盛んになって、国はますます不安定となります。これは、世の乱れが宮中に起こり、遂に社稷を危うくするまでに至ってしまいます。もしそのようなことがあれば、私は地下にいらっしゃる先王に何を申し上げましょうか。一言も言葉が見つからないでしょう。」

 これは周公旦が意見を太公、召公の二公に相談した内容でした。

 

社稷:古代中国で、天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。

禍乱:世の乱れや騒動。

蕭墻:宮殿内の屏風または垣。