易経書経講義 周書 金滕 その8

お久しぶりです、丸岡です。

最近は、名馬物語とその英語版、大坪本流武馬必用の第二巻、安倍晴明記の第三巻と、4冊を並行して執筆しており、もうすぐ1冊目の出版の準備が整いそうです。

そして今まで途中になっていたこちらの金滕のお話も、今回と次回の2回で終わります。

 

 初め、流言の起こるに当たつては、成王も、猶周公を疑ひたれども、未だ事の実否を尽くさず、然るに、周公は、これを避けて、既に東都に居りたり。故に、周公も、成王も、未だこの流言の、誰人よりして、起こりしと云ふことを知らず、そのまま、二年を過ぎて、初めて、この流言は、管叔、蔡叔より、出でたることを知り、成王の疑ひもやや解け、従つて、管叔、蔡叔が、忠良を讒して、以て社稷を危ふくせんと、欲したりの、悪謀を発見したるなりと、なり。」これ、小人の、君子を害する、その謀図、巧みなりといへども、終に君子の正誠に勝つ能はざることを、見るべし。

 

忠良:忠義で善良なこと。また、そのさまや、その人。

小人:度量や品性に欠けている人。小人物。

 

 はじめ、流言が発生したころは、成王もまた周公旦を疑いましたが、まだ事実かどうかを確かめてはおりませんでした。それにもかかわらず、周公旦は成王を避けて東都に移っていました。そのため、周公旦も成王もまだ、この流言が誰によってもたらされたかを知りませんでした。そのまま2年が過ぎて初めて、成王はこの流言が管叔と蔡叔より出たことを知りました。成王の疑いもやや解け、従って、管叔と蔡叔が忠良(周公旦)を誹ることで国家を危うくしようという謀りを発見した、ということです。」これは、小人物が君子を害する謀りが巧みであったといっても、最終的には君子の誠に勝てないことが分かるでしょう。

 

 後に于(おい)て、周公は、詩四章を為つて、成王に貽(おく)りたり。その篇を名づけて、鴟鴞と曰ふ。その詩は、鳥の自ら言ふに托(ことよせ)して、その意を言ひたるなり。その譬へたる鳥の、鴟鴞は、悪鳥にして、自らその巣を破り、また、その卵を破るものゆえ、これを、武庚が、管叔、蔡叔、と共に、王室を敗ることに比し、深く王室の為に、憂ひたるものなり。故に、語気切直なれども、もと忠憤の余りに、出でたるものにして、かつ、成王も、また、心を虚しくして、これを受けたりし。故に、敢へて周公を詰(なじ)り責めざりし、となり。」これ、成王も、一時は、周公を疑ひしも、ここに至つて、その疑、全く晴れて、反つて、悔心の萌したるを、見るに足るなり。

 

鴟鴞(しきょう):①鳥「とび(鳶)」また、「ふくろう(梟)」の異名。② 邪悪な行ないをすること。また、心の正しくない人をたとえていう語。

 

 後になって、周公旦は詩四章を作って、成王に贈りました。その篇は鴟鴞という題名でした。その詩は、鳥が話すことにかこつけて、周公旦の気持ちを告げたのでした。その譬えた鳥の鴟鴞は悪い鳥で、自分でその巣を壊し、またその卵を割るものですから、これを武庚が管叔や蔡叔と共に王室を壊すことになぞらえ、王室のことを深く憂えたものでした。そのため、語気は切直でしたが、もともと義憤の余りに出たものでしたし、成王もまた心を虚しくしながら、これを受け止めました。そのため、敢えて周公旦をなじったり、責めたりはしなかったそうです。」これは、成王も一時は周公旦を疑いましたが、ここに至ってその疑いが完全に晴れて、却って後悔が芽生えたことが見て取れます。

 

 これまた、史官の記序なり。さて、是(この)年の秋は、田寛大に熟し、頗る豊作なりしが、尚未だこれを収め、穫らざるに先立ちて、忽大に雷電し、これに暴風を加へたり。これ、天候の悪きに因つて、禾黍(かしよ)は、尽く吹き偃(ふ)せられ、大木は、斯(ここ)に抜けたり。これに因つて、一国の人は、大に恐れ懼れたり。これに於いて、成王は、大夫諸臣と共に、尽く弁服して、以て、金滕の匱を啓き、冊書を取つて、うらなはんとするに、偶々、周公が、武王の疾あるの時に当たつて、自ら祭事に任じ、身を以て、その死に代はらんと、祈りし所の、祝冊を見出したり、となり。これ、周公の至誠は、上天に通徹すといへども、成王は、未だこれを、信ぜざりしゆえ、上天、忽ちこの災変を降して、以て成王を、警戒せしものならん。

 

禾黍:稲と黍(きび)。

 

 これはまた、史官の記した経緯です。さて、この年の秋は、田が広々と実り、すこぶる豊作でしたが、まだ収穫していないというのに忽ち大きな雷と、暴風が重なりました。悪天候のため、稲や黍はことごとくなぎ倒され、大木は抜けてしまいました。このため、国中の人は大変恐れおののきました。ここで、成王は貴族や諸臣下と共に、皆が弁服(礼服)を着て、金滕の匱を開き、冊書を取って占おうとすると、たまたま周公旦が武王のご病気の時に当たって自ら儀式を行い、身を以て武王の死の身代わりになろうと祈ったときの祝冊を見つけたそうです。周公旦の誠実さは、天上まで貫き通すほどといっても、成王はまだそれを信じていなかったため、天上は忽ちに今回の災いを発生させ、それによって成王を戒めたということなのでしょう。