易経書経講義 周書 金滕 その9

みなさん、こんばんは。丸岡です。

大変長らくお待たせしましたが、本日が金滕の最後のシーンです。お楽しみください。

 

 二公(太公、召公)及び、成王は、既に、金滕匱中の書を見て、始めて、周公が武王の命に代はらんと迄に、祈請したる誠意を知り、すなはち、その事の始末を、諸史(卜を掌りし人)と、百執事(その事に関係したる、諸役人を指す。)とに、問ひたるに、その人々対(こた)へて曰く、然り。信に、その事ありたるに相違なかりし。ああ、それに付き、当日の事が思はるる。そもそも、当日は、公(周公)が、祝の事を我等に命じ、我等が、まさに、その事を掌りしが、その事、頗る秘密にして、他へ洩らし聞こゆることを、禁ぜられたる故に、我等は、今日に至るまで、敢へてこれを、他人に告げざりしとなり。」それ、周公が、国の為に、苦心して、至誠、天人を感ぜしむること、浅からず。故にこれに至りて、天変に徴し、人言に証して、益々、その信なるを見るに、足るなり。

 

 二公(太公、召公)と成王は、金滕の匱の中にあった書を見て、初めて周公旦が武王の身代わりになるべく祈りを捧げていたことを知り、すぐに当時の顛末を諸史(占いを掌る人)と、百執事(関係した諸役人)に尋ねたところ、人々は答えました。

「左様です。まことに、その事は間違いありません。ああ、あの日の事が思い出されます。そもそもあの日は、周公様が儀式の事を我々にお命じになり、我々はそのようにいたしましたが、そのことは全くの秘密で、他人に漏らすことを禁じられたので、我々は今日まで誰にも話しておりませんでした。」

 周公旦は、国の為に苦心して、誠に至り、天の人を非常に感動させました。そのため、天変に兆候が現れ、人の証言が出て、益々、その信実が分かりました。

 

 成王、金滕の書を啓きて、天変を卜せんとして、忽ち、周公が、三王に祈請せし、当日の冊書を得、遂に感悟して、その書を執り、涕泣して曰く、今日の天災ありしは、われ既にその由を知る。故に、今更に、穆卜するに及ばず。昔、公(周公)は、我が皇考(武王)の時にありて、心力を尽くし、王室の為に、勤労せしこと、かくの如し。然るに、その時は、われ尚幼冲にして、諸事、詳に知らざりし。これを以て、その忠誠なる公をして、無根の流言に遭ふて、その位に安んぜざらしむることを致せり。これひとへに、予小子の、不明なりしに因るなり。この故に、今、天は威を動かして、風雷の変をしめし、以て明に、公の盛徳を彰し、予小子の不敬を、懲らし戒められたるなり。故に、今天の怒りを、緩めんとするには、これ、われ小子が、親(みず)から往きて、公を迎へて、我が国に帰らしむるにあるのみ。然るときは、我が国家が、有徳を崇ぶの礼に於いても、また宜しきに適ふことなり、となり。」それ、これに至つて、周公の心、始めて明に、成王の疑は、始めて釈(と)け、周の社稷は、復た安平に帰したるなり。

 

皇考:在位中の天皇が亡くなった先代の天皇を言う語。

 

 成王は、金滕の書を開き天変を占おうとしてすぐ、周公旦が三王に祈っていた当時の書を見つけ、遂に今までの経緯を悟り、その書を持って涙を流して言いました。

「私は近頃の天災の理由が分かりました。そのため、もう占うまでもありません。昔、周公旦は私の父、武王の御代に心を尽くし、このように王室の為に働きました。ところが私はまだ幼くて、色々な事が良くわかっていませんでした。そのため、忠誠を尽くした周公旦を、事実無根の流言のために、その位から追いやってしまいまいました。これはひとえにこの私が見抜けなかったことが原因です。このため、今、天はその力を使って風雷の異変を起こし、周公旦の立派な徳を知らしめ、私の不敬を懲らしめ、戒めているのです。よって、今、天の怒りを鎮めるためには、私自らが周公旦のもとへ行き、周公旦を迎えて我が国に帰らせる以外の方法はありません。そうなれば、我が国家が、徳を尊ぶ礼においても、それがふさわしいのです。」

 ここまで来て、周公旦の心は明らかになり、成王の疑いは解け、周の社稷(祭壇)はまた穏やかになりました。

 

 成王、既に天災に因つて感悟し、遂に親ら周公を迎へんとして、郊外に出づれば、天すなはち雨ふりて、風を反へし、偃し倒れし禾(いね)は、尽く起き上がりたり。天の感応、速やかなること、斯くの如し。二公(太公、召公)は、因つて邦人に命じて、凡そ、偃し倒れたる、大木を、起こして、その根を築き固め、更に、培植を加へしめたり。ここに於いて、その歳、果たして、大に熟し、豊年なりし、となり。」それ、成王は、不明にして、周公の誠実なりしを知らず、一時流言に惑はされ、聊(いささ)か、疑心を抱きたるゆえ、天は忽ちに威を示して、これを懲戒せしが、一旦、その非を悟り、過ちを改めて、親ら周公を迎ふるに及んでは、天はまた為に、その順を助け、年をして豊ならしむるに至り、忽ちに、災を転じて、祥と為したり。その感応差(たが)はざること、かくの如し。以て天道の、至明至公なるを見るべし。按ずるに、武王、疾瘳えて、四年にして崩ず。群叔流言して、周公罪を得て、東に居ること二年の後、成王周公を迎へて、周に帰らしむ。その間凡そ六年の事なり。書を編む者、金滕の篇の末に附けて、具(つぶさ)に命を請ふことの終始と、金滕の書の、顕晦とを見せしむるなり。

 

顕晦:現れることと隠れること。

 

 成王は天災によってこれまでの経緯を悟り、遂に自ら周公旦を迎えに行こうとして、郊外に出れば、天は雨を降らし、風を吹かせ、伏し倒れた稲は、ことごとく起き上がりました。このように天の感応は速やかでした。二公(太公、召公)は、自国の人に命じて、伏し倒れた大木を起こして、その根を築き固め、さらに育てさせました。こういうわけで、その年、実は大いに熟し、豊年となったそうです。

 成王は、周公旦の誠実さを見抜けず、一時は流言に惑わされて、周公旦を疑ってしまったため、天は現に威を示して成王を懲らしめましたが、成王がその非を悟り、過ちを改めて、自ら周公を迎えることとしたので、天はまたその理に従い、その年を豊作にし、災いを転じて福としました。その感応はこのようにして正道に食い違うことはありませんでした。このことから、天の道が明るく、公平なことが分かるでしょう。

 私が考えますに、武王は病気が癒えて4年にして崩御されました。叔父たちは流言をして周公旦は濡れ衣を着せられ、東に隠棲すること2年の後、成王は周公旦を迎えて周に帰らせました。その間およそ6年のことでした。この書を編んだ人物は、金滕の篇の末尾に、身代わりを乞うた経緯と、しまわれていた金滕の書が現れたことを詳細に追記したのでしょう。