易経書経講義 周書 金滕 その1

みなさん、こんにちは。丸岡優です。

昨日公開しました金滕の記事が、読むのに根気がいるということでしたので、少しずつ大意を追加していくことにしました。ご参考になりましたら、幸いです。

 

金滕

 この篇は武王疾あり、この時、天下新たに我に帰して、人心未だ知るべからず。殷の旧民、ことに王家に服せず、王室これを以て、未だ安からず。根本揺るぎ易きに、武王の病軽からず。周公、よつて三王の廟に祈つて、身を以て、武王の命に、代はらんと請ふ。史官、その祝文を録し、併せて、その事の始末を記して、これを金滕の匱に蔵(おさ)む。故に金滕を以て、篇に名づけたるなり。

 

 殷王朝を倒し周王朝ができたものの、武王が病気になってしまいました。まだ殷の民が言うことを聞かず、王室も不安定な状態なうえ、武王の病は軽くありません。武王の弟、周公旦はこれを危ぶみ、先祖の三王(太王、王季、文王)の霊廟に祈って、武王の身代わりになりたいとお願いしました。

 史官(文書記録の役人)が、その祈りの文と事の一部始終を記して、金滕の木箱に納めたので、この篇を金滕と名付けています。

 

 これ、史官の記叙なり。武王既に、商紂に克ち、後僅かに、二年に及びたるに、王、癘虐の疾に罹り、心、悦予せず、然るに、この時は、王業日猶、浅きを以て、商の旧民、未だ尽く王家に服せず、王家、これを以て未だ安からず。根本揺るぎ易し。ゆえに、周公、深くこれを憂慮したり、となり。

 

 これは、史官の記述です。

武王は、商(殷)の紂王を倒しましたが、その2年後、非常に思い病にかかり、心も晴れません。まだ商の民たちは全く服従しません。そのため王家もまだ基盤が揺るぎやすく不安定です。そのため、周公旦は、これを深く憂えていました。

 

 太公、召公、共に武王の疾あるを見て、すなはち辞を同じくして曰(い)ふ。我等は、それ王の為に、穆卜(ぼくぼく)せん、となり。これ、武王の疾は、周家の安危に係る、故に、二公、自ら安んぜず、これ、あるいは天意の然らしむるところ、ならんかと思ひ、亀卜(きぼく)に因つて、以て天意を伺ひ、その安否を、知らんと欲してなり。

 

 太公望と召公奭は、二人とも武王の病を見て、口をそろえて言いました。

「私たちは、武王のために二人で占いを致します。」

こう話したのは、武王の病が王室の安危に係ると見た二人が、これは天の意志なのかと思い、亀卜によってその安否を知りたかったからでした。